2016年5月29日日曜日

オバマ大統領の広島訪問に思うこと

2016/5/27は歴史的な日になったと思います。この日の前後に思ったことを記憶にとどめておくため書き残しておきたいと思います。
私は広島県に生まれました。爆心地からは遠いので、親戚など身近な方が亡くなった、という話はありませんが、折に触れて原爆が落ちた時のこと、その後に起こったことを聞いて育ちました。近所には被爆の数日後に広島市内から歩いて帰ってきた、という人もいたそうです。

アメリカの大統領が広島に来ることを検討している、というニュースがありました。アメリカでは、この原爆使用をしなかったらいずれ本土で地上戦となりより多くのアメリカ兵が犠牲になった、市民の犠牲もより増えたはずだ、だから戦争の終結を早めるために正しい選択だった、という意見が多いと聞きます。ある意味でそれは正しいのかと思います。だから、アメリカの最高権力者である大統領が広島に行くことにしっくりしない人が多いのも理解できます。
広島の地を訪れる、ということは原爆の使用に対して何らかの贖罪の念が表されるのではないか、ということになる可能性が有ります。それは多くのアメリカ人の感情と相容れない部分がある、それも理解できます。

私はこう思います。アメリカの大統領だけでなく、だれであっても広島に行きたい、と言うなら、それは自由です。どうぞお越しください。広島には行きたくない、行くべきじゃない、と言うならそれも自由です。行くか行かないかは本人が判断すればいいのです。
オバマ大統領は前者でした。そうであれば、ぜひお越しください。そこで何かを感じてください。大事なことは、そこに行くことで直接感じることができる何か、です。
人は歴史から学びます。歴史の多くは文字となり絵となって伝わります。しかし、直接触ったり見たり感じると、文字や絵で見たものよりもはるかに多くのことを学ぶことができると思います。
博物館に飾ってあるものを写真やガラス越しで見るのと、展示物を直接見たり触ってみるのとでは感じ方が全然違うと思います。心に残る深さが違うと思います。それと同じです。
広島に行き、原爆資料館に展示されているものを見て(多くは直接触れませんが )、原爆ドームを自分の目で見て、被爆者の声を直接聞く、原爆ドーム周辺の空気を吸う、平和記念公園の周りの雰囲気を感じる。この経験から得られるものは、遠くの地で文字や映像だけで学ぶよりもはるかにたくさんのことを感じることができるのです。
一瞬のうちに蒸発してしまって影だけが残った人影、溶けて曲がってしまったガラス瓶や瓦など、原爆の威力は凄まじく、破滅的です。
そして70年間草木が生えないと言われていた71年後の広島の復興の力、平和に対する思いを感じて欲しいと思います。

大統領に謝罪を求める、という人がいました。謝罪がないなら来る意味がない、という人もいました。でも、私はこう思います。謝罪をする意味は何なのか?何に謝罪をして欲しいのか?と。原爆が落ちた時、生まれてもいなかった大統領が謝罪をしてもそれは何かが違う気がします。直接親戚や肉親を亡くされた方はその罪に対して謝って欲しい、と思うかもしれません。それはその通りだと思います。でも日本とアメリカは戦争をしていました。他にも犠牲者はたくさんいました。戦争で亡くなられた方全てに哀悼の意を表する、これが今を生きる私たちができる最大のことではないでしょうか?
そしてそれが「過ちを繰り返さない」ことにつながるのではないでしょうか。

いろいろな配慮があって、オバマ大統領は広島で演説ではなく所感を述べられました。しかし中身は15分を超えたspeechでした。訪問の前に考えられたものが多かったと思います。人類に対する決意、のようにも読み取れました。オバマ大統領が広島の地で感じられたことを、これからも大事になさっていただければ、と思います。またこれを機会に広島を訪れる人が増えることを祈ります。

この出来事は日本が戦争の被害者であったか、加害者であったかを決めるものでも、日本人だけに対する戦争被害者への哀悼でもなかったと思います。
核兵器のない世界を作りたい、という決意を人類に対して示した歴史的な日だったと思います。

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